釈尊涅槃の地 クシナガラ~印度団参part7

■2015/03/26 釈尊涅槃の地 クシナガラ~印度団参part7
【釈尊涅槃の地 クシナガラ】
3月6日
釈尊涅槃の地 涅槃堂に参拝する前に最後の説法の地を車内より参拝した。
正確には、入滅前の説法を最後とすれば、最後から2番目の説法となる。
『自燈明 法燈明』の説法をされたと伝わる。
《自らを燈火とし自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を燈火としよりどころとせよ、ほかの教えをよりどころとしてはならない。
わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみも苦しみの因であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば全ての苦しみを断つことができる。 仏教聖典より》
「自分の心にある正しき心を頼りとせよ。」ということである。
良心とは誰もが持つ。だが、その通りに生きることがかなわないのが人生である。
誰のためでもない自分のために、自らが燈火とならなければならない。心、良心を磨き、そして行動する。指針は法華経にある。簡単な話ではないが努めなければならない。
あとは、釈尊、法に護られていることを信じればよいのである。
「南無妙法蓮華経」の信仰それである。

【釈尊涅槃の地 涅槃堂】
釈尊最後の説法
《私は最後の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれるのは止むを得ない。仏の本質は肉体ではない。悟りである。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそ私を見る。 仏教聖典より》
「佛には遭い難し」と説く。仏の境地、悟りを得なければ会うことはかなわないのである。
久遠実成本師釈迦牟尼佛=法華経
実態ではなく、教え、悟りが釈尊である。「一一文文是真佛」である。



釈尊は病にかかり「三月の後に涅槃に入るだろう。」と予言する。
鍛冶屋のチェンダの供養を受けるが、「この供養は悟りを得た者のみ食べることができる。」と弟子に食することを許さなかった。釈尊の病状は悪化した。供養の品に毒があったのか、いたんでいたのか・・・
釈尊はわかっていたのである。食べてはならない供養の品であったことを。だから、弟子を制したのである。
弟子たちは「チェンダの供養により病状が悪化したのでは?」と疑い始めると、釈尊は「チェンダの供養によって悪化したのではない、そうであったとしてもチェンダを恨んではならない。なぜなら、スジャータの供養と同等にありがたい供養を受けたのだから。」と仰られたと伝わる。
最後の最後まで広大無辺の慈悲を与え続けたのである。
釈尊は沙羅の林に入り、大木が並び立つ間に横たわり、最期の法を説き、大導師たる仏としての仕事を終えられ、静かに涅槃に入った。上は仏、下は畜生まで悲しみの涙を流したことは知られるところである。



この地において、釈尊に法味を言上した。非滅の滅を現じた聖地においての読誦である。法悦極まりない。
 




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