多聞寺に於いて中心の建物。
日蓮大聖人が開顕された大曼荼羅御本尊を文字ではなく、ご尊像で表わしております。
「多聞寺」寺号の いわれである「日蓮大聖人御出迎え毘沙門天」を安置しております。
各種法要はこちらで奉行します。
北浦忠吾忠内公はこの土地をおさめた郷士で、多聞寺大檀越です。
日蓮大聖人四法難の一「小松原法難」で日蓮大聖人をお救いしました。
二十三夜の月は勢至菩薩の化身と考えられ、勢至菩薩をお祀りします。
月は肺、肝等の「にくづき」という部首があるように、病気平癒に信仰され、病になった時には二十三夜堂の宝珠を授かり患部をなで病気平癒を祈ったと伝わります。
また「三夜待ち」「産夜」と呼ばれ、子授けに信仰されます。
房総一帯で疫病(せきの病)が流行した時、日蓮大聖人は、北浦忠吾内公館の姥が池にせき止めの経石を沈め姥神お祀りしました。病者がこの池の水を飲むと、霊験あらたかに病は治りました。
小松原法難の砌、北浦忠吾内は、日蓮大聖人を守護し難を避け館にてかくまいました。
御難で受けた眉間の御創を姥が池にて洗い手当てをしました。
明応の大津波により姥が池は土砂うもれてしまい、井戸に改修しました。
東条藩初代藩主西郷正員の父、家員の室です。
西郷氏は下総生実(千葉市)で 5千石を知行する旗本でしたが、里見氏所領没収の元和6年(1620)9月、安房東条1万石の大名となりました。
藩主正員の叔母は徳川家康の側室となり、2代将軍秀忠の聖母、西郷の局です。
墓塔基礎部に元和 4年、(1618)2月13日と刻まれてあり、正行院の没年です。
3回忌を迎えた翌々年の元和6年の造塔といわれています。
宝篋印塔で、隅飾りには西郷氏の家紋「丸作鷹羽(一本矢)」が記されてます。
江戸時代に庶民の教育機関であった「寺小屋」で、使えなくなった筆に感謝をこめおさめた塚です。
多聞寺は、地域の先祖をお祀りするだけでなく、子供育み、読み書き学ぶ場として重要な役割を果たしていたのではとおもわせます。
眼下に広がる大海原、心地よく響く波の音、爽やかな潮風、四季を通し温暖な法華経の音声ひびくこの地で、永代にわたり諸霊位を供養します。
共に暮らした大切な家族の一員であり、「愛情」というあたたかなぬくもりを家族にくれたペットを永代にわたり供養します。